大変お世話になっております。
反逆する武士
uematu tubasaです。
初回投稿日時:2021年3月20日(令和3年3月20日)
池戸万作氏(以下敬称略)と門前小僧氏(以下敬称略)に対して、偏った目線ではなく、一人の人間として、一人のブロガーとして、思ったことを備忘録的に残したいと思い、記事にさせていただきます。
結論だけ申し上げれば、私は池戸万作と門前小僧の両者に対して、主義主張の部分で頷けるところは多々ありつつも、言論という作法としては、どうしても納得できない部分があるということです。
拙ブログの皆様からすると、何それ???ということになるかと思いますので、丁寧に説明したいと思います。
参考記事:日刊IKD⑦~とある安全保障女子()と問答するIKDと止まらないストローマンダンス
参考Twitter:https://twitter.com/hxlFFCUM7s12AzJ
この記事に関しては、上記の参考記事を熟読していただくことが前提となりますので、ご注意いただければと存じます。
さて、本題に入りましょう。
池戸万作と門前小僧の立場の違い
間違っている可能性はあると認めつつも、私なりの解釈を記載させていただくならば、池戸万作と門前小僧においてはその主義主張は異なっております。
門前小僧:ベーシックインカム批判論者。
民間企業に勤める労働者の賃金を増やすことを重視し、竹中平蔵(新自由主義者)を批判しつつ、賃金よりも配当金を重視する現実の経済体制を批判、無税国家反対。
池戸万作:狭義の無税国家は可能と主張。
社会保障を維持した上でのベーシックインカムの導入を主張。
まずは、上記のように簡単にまとめさせていただきました。
詳細に関しては、参考記事:日刊IKD⑦~とある安全保障女子()と問答するIKDと止まらないストローマンダンスをご確認いただきたいのですが、池戸万作は竹中構造改革(新自由主義的な構造改革)を是正し、社会保険料を引き下げ、それと同時にベーシックインカムの導入を主張しています。
それに対して、門前小僧は以下のように主張します。
ハイ、出ました。
引用元:日刊IKD⑦~とある安全保障女子()と問答するIKDと止まらないストローマンダンス
BIカルトお得意の全部やればいいじゃない理論。
池戸センパイというか、反緊縮系ベーシックインカム信者のテンプレ発言です。
(中略)
やれるわけねーだろ
バーカって話ですよネ。
積極財政だけでも苦労してるってのに、同時並行的に竹中構造を潰して、社会保険料も値下げして、なんてできるわけがない。
門前小僧は竹中構造改革と社会保険料の引き下げと、ベーシックインカムの導入は同時にできるわけがないと主張しております。
それでね・・・すっげぇ言いにくいのですが・・・
それって門前小僧の主観ですよね(; ・`д・´)
あえて真面目に反論するのであれば、竹中構造改革(新自由主義的な構造改革)を是正、社会保険料の引き下げ、ベーシックインカムの導入を主張するれいわ新選組のような政党が躍進して、政権を奪還すれば、可能ですよね???
完全に客観性を失っていると思います。
さらに言えば、批判の仕方が駄目過ぎますよ。
完全に悪口になっており、少なくとも、言論活動を行う人間としては厳に慎むべき態度と言えます。
冷静な口調で、客観的な事例などを挙げ、竹中構造改革と社会保険料の引き下げと、ベーシックインカムの導入は同時にできるわけないと主張するなら理解できますが、上記のような態度は駄目でしょうに。
池戸万作をことさらに擁護するわけではないですが、完全に悪口を言われている人間がいたら、その悪口は違うだろうと言いたくなるのは人情だと思いますよ?
無税国家は可能だが、実現するべきじゃない
さて、門前小僧と池戸万作の争いは無税国家は可能なのか否かに関しての論争に移ります。
門前小僧は無税国家は不可能と主張し、池戸万作は無税国家は可能と主張しています。
※ただし、池戸万作は無税国家を実現するべきとは主張していない。
私個人としては、租税貨幣論を支持しておりますので、無税国家は可能だが、実現するべきではないと考えております。
日本円は日本政府及び地方自治体への納税手段として公式に認められているからこそ、価値が生まれ、日本国内で流通しているのであって、納税手段としての価値が失われたら、貨幣価値が著しく減少してしまい、国民生活が不安定化するのではないかという危惧があるからです。
もちろん、納税手段として認められているという理由だけで、日本円が日本国内で流通しているわけではないですが、主要な理由ではあると考えます。
細かいことを言えば、租税貨幣論以外にも、法定通貨だから民間経済で流通しているのだという主張や、借金返済手段として規定されているから民間経済で流通しているのだという主張も説得力はありますね。
ただ、無税国家は可能だとも言えます。
極論ですが、国会の衆参両院で徴収停止が議決され、またはそれに準じた法案が可決成立すれば、無税国家は理論上可能だからです。
話を元に戻しますと、門前小僧は「無税国家は可能と主張する池戸万作」を批判します。
「無税国家にすべきだとは言ってない」と言い張る池戸センパイですが、
引用元:日刊IKD⑦~とある安全保障女子()と問答するIKDと止まらないストローマンダンス
※そもそも無税国家が理論上可能なら、「何でやらねぇんだ」という話になり、
やらない(やれない)理由があるなら、それは「理論上でも不可能」という話になります。
ゆえに、「理論上可能」と言っちゃった時点で、無税国家にすべきだという主張を肯定していることになるんですけどね。
理論上可能と主張した時点で、その理論上可能という事象を肯定していることになると?
この場合、無税国家が理論上可能であると主張した時点で無税国家にすべきだという主張を肯定していることになると?
それは完全に間違いですよ(; ・`д・´)
そもそも、上記において私も主張しましたけど、理論上可能だけど、実現するべきではないという主張はあり得ます。
事実(それが可能か否か)と価値判断(それを実現するべきか否か)は全く別物として捉えないとそもそも議論が成立しませんし、不要な論争の元になりますよ。
例えば私が「人が人を殺すことは可能である、だが生存権を不当に侵害しては駄目だし、人が容易に殺されてしまうような世の中は治安が悪く安心して暮らせないから人を殺すべきではない」と主張したらどうでしょうか。
さて、私は殺人を肯定したことになりますか???
そんなわけありませんし、日本語を理解した人間ならば、そのように勘違いすることはないと思います。
事実:人が人を殺すことは可能である。
価値判断:人殺しは駄目。
あえて付言させていただくのであれば、司法の場で正当な手続きの上で行われる死刑執行以外での殺人はどう考えても肯定できません・・・というか全力で否定させていただきますよ('ω')ノ
政治的な議論においては、とある主張に対して批判して、反論するというのが常に発生しますが、批判そのものが筋違いだったり、あまりにも的外れだと、批判している人間の信用が失われてしまいます。
自慢ではございませんが、私は現実(リアル)の場で意見を戦わせることを学生時代から継続してきましたし、社会人になってからも様々場面で話し合いを経験し、ブログや言論誌での論争を分析した経験がございます。
その経験から申し上げると、こういった無理筋批判はどう考えても言論の作法として御法度でございますよ。
・・・というか主義主張に関しては門前小僧に賛同する部分も多々あるのに、こういった無理筋批判をされては、支持しにくいです。
さらに言えば、言論や主義主張をブログで公開している人間として、こういった無理筋批判は厳に慎むべきです。
人の振り見て我が振り直せという言葉が頭に浮かびました。
私も今後、言論という場で闘うことになると思いますが、門前小僧のような振る舞いは避けねばなりません。
以上です。